
「お味噌汁は今夜食べきって下さいね」
「うん」
――――静まれしずまれい! 「煮物は、寝る前までに一度火を通してください」
「ああ」
――――頭がたかーい、ひかえおろう! 「あしたそのまま食べちゃダメですよ」
「うん」
――――この紋所が眼にはいらぬか! このお方をなんと心得る・・・・・・! 「大丈夫ッスね? いっそ冷蔵庫に入れておきます?」
「ああ」
磨りガラスの引き戸に隠れてみえないが、先生の声はこっちを向いていない。
どうやらテレビが佳境のようである。
水で冷やしたホーロー鍋を、冷蔵庫につっこんだ。
食中毒の季節ではないが、ずっと出しっぱなしの可能性がある。
眼の高さに配置しておこう。
ついでに消費期限の迫っているハムもとなりにおく。 食べないだろうなあ・・・・・・。
水台先生の冷蔵庫は、中身のなさではあたしのといい勝負である。 そのかわり、台所の野菜が新鮮で、豊富だ。
対面の森のかげに、先生の実兄の家がある。 先生はいつもそこで食事をよばれるか、軽トラックに乗って駅前食堂ですませて来るらしい。
実兄というのは、「キシンに向かない」と二代目に見切りをつけられたひとなのだそうだ。
自分のかわりに道統を継いだ弟のいまを、どういう想いで見ているのだろうか。
いずれにせよ、水台先生はほとんど自炊してないと思われる。
昼食の支度を申し出たとき、水台流三代目はうろたえて、すまねえなあ、すまねえなあと小さくなっていた。 ここに来るたび、型稽古のように繰り返されるやりとりである。
・・・まあ、今回は意地でもやるつもりで来たけど。
食費が浮いたし、病み上がりの体に新鮮野菜は口福だった。
先生は残りの野菜をもって帰るよういうはずだ。 これで交通費の元がとれる・・・いつのまにか、いじましい計算もはじめている。
タンパク質は――――ギャラが入ってから。
硬くしぼったふきんをふきん掛けにかけると、ひと休みして台所をみまわした。
シンクまわりの水はねの跡。 幅木のスミには綿ぼこリがたまっている。
昼食をとった居間もおなじだった。
埃は、人気のない家ほど絶え間なく降りそそぐ。
勝手口のドアノブに、乾いた泥がこびりついているのが眼についた。いったい何をやったんだろう。
ざっと、掃除機もかけて行こうかな・・・・・・。
塵のつもったちゃぶ台に、からからに乾いたふきんが乗っているのを見ると、なんだか放っておけないというか――――心配になる。
無精ひげは毎度のことながら、鼻毛がのびてた。ソックスはたがいちがいだし、シャツの袖口はほころびがひどい。
言ってやる人間がいないとこんなになってしまうものかと呆れる一方、先生のその姿にはふと胸を衝かれるものがある。
水台先生は、生きることをどこかで放棄しているのではないだろうか。
あたしは汚れたドアノブを見つめる。
箕面庄蔵、あんたはどうなの?
蜘蛛の糸をはらいおとした。
糸は以前よりいっそうかぼそく、繊細に――――しかし強靭になっている。
あんた、死に急いでいるね?
ふっと糸がはりつめ、ゆるむ。
はらはらと新たな糸が、すがりつくようにふってくる。
また、はらいおとす。
しつこかった。
どうやらこの男はキシンの能力を使える。
それに――――
弱っている・・・。
病か、老衰か、この男は死にかけている。あたしがそれに気づいたことも承知している。知っていて、執着している。
もとは強い男だったのだろう。しかし今は子どものように孤独に怯え、ふるえている。
――――無理心中。
鳶山橋で打ち消したことばをふたたび思い浮かべた。
庄蔵は何かに絶望している。 あたしも一緒に絶望する義務があるとでも思っているのだろうか。
・・・・・・やめとこ。
新たな展開がない限り、いくら考えたって答えは出ない。
こうやって、農家の台所でドアノブをにらんで、愚にもつかない堂々めぐりを――――。
ドアノブ。
そういえば、さっきからいつもこの方角を見ていた。 忙しく働いている間は気にも留めなかったが。 泥がついてるからかなあ・・・・・・体の癖?
そんなこと何故かんがえる、てか、どうしてあたしはここばっかり見ているのだ?
こころの中で、なにかが「軋む」感覚があった。
固く閉ざされていたものが身じろぎするような、かすかな動き。
何かが、ある。
あたしの無意識が、何かの解答をつかんでいるらしい。
つかんでいるのだが、言葉にならない。 出られないでいる。
さぐってみるか――――。
台所に立ったまま、気息をととのえる。
三拍。二拍。一拍。
三拍。二拍。一拍。
吐いて。吸って。停めて。
吐いて。吸って。停めて。
眼を細め、ドアノブの光沢に集中する。
たえず動揺し、落ちつき無く反応するコンをハクにおし鎮めなければならない。
外界に広がる触覚を、今度は内に向けるのだ。
三拍。二拍。一拍。
三拍。二拍。一拍。
吐いて。吸って。停めて。
吐いて。吸って。停めて――――。
眉間にあつまるエネルギーは熱をもち、光を放ち始める。
ゆらめきにふちどられた針のような光線が三日月に、三日月から半月に――――。
やがて白い満月となって視界を覆う。
「振るべし。ゆらゆらと。」水鏡。月の表面にひろがる波紋。
三界を流れる大河の一滴。
よどみ、逆巻く因果の波。
沈め。より深く・・・・・・より静かに。
周囲の音が遠ざかり、かわって微細な音が聞こえ始める。
子どもの笑い声は――――雛子?
きび太と遊んでるのか。
ぽん、とあたしの背中にとびのるように抱きつき、また駆けて行った。
きび太が腰のあたりにぶつかって、のく。 けらけら笑っている。
青い川。インクのような。
無数の風車が立ちならぶ、白い河原。
可愛らしい小さな積み石の群れが視界を掠めて、きえる。
シンに置き去りにされた小さな魂魄。――――悲しみもなく、苦しみもなく。
三拍。二拍。一拍。
三拍。二拍。一拍。
小鬼の領域を通過して、沈む。
もう、そろそろだ。
空中を舞う塵のように、きらきらとまたたく想念が流れている。
塵を透かし見る。
その下。
まだ下。
――――もっと底だ。
潜れるだけ潜り、のばした手にふれた「何か」のサルベージにかかる。
さあ、雷花。
あんたはいま、なにを見ている?
ドアノブ。
抹茶色をしたドア。
金色の壁。赤い――――臙脂色の毛氈がしかれた廊下。
いま・・・・・赤毛の青年が入って行った。 ドアの向こうに変なモノが見えた。
そこに近づいてはいけません――――。誰? 誰ですか、あなた・・・・・・初枝さん?
揺らぐな。
静かに自分に警告する。無意識がランダムにつながった幻覚だ。
さあ、もう一度。 雷花、あんたは何を見ている?
そう。 ドアノブだ。
赤毛の青年がにぎっていた――――では、ドアノブのどこをみている?
ドアノブについた――――鍵穴。
見ているのは・・・・・・「鍵穴」。
鍵―――― 小津乃雷花 は、いま、ドアにかけられた錠を見ている。
ロック。封印。・・・・・・心理的な。
心理的な、「封印」。
誰の?
オヅノマサハル。
それが――――解答の浮上を妨害して・・・・・・。
それに触るな!!どっと降ってきた「糸」の感触に、あたしは思わず首をすくめ――――
すべて忘れてしまった。
洗った茶器をもって居間にもどってみると、テレビがつけっ放しになっているだけだった。
となりの八畳間との襖が少し空いていて、人の動く気配がある。
座ってテレビを消すと、ポットからお茶を入れた。
先生の家の緑茶は上物だ。遠慮なく、茶っ葉をがばがば入れる。
いっこうに戻ってくる気配がないので先にいただくことにした。 うは、きっつー! これでこそお茶だよ。
ひさしぶりにくつろいだ気分のあたしが、窓の外を呆けて眺めていると、襖が動いて水台先生が出てきた。
ぶ厚いノートのようなものを持ち、脇に細長い箱を抱えている。
「お茶、はいりましたよ」
「うん。・・・・・・これに載ってなきゃあ、俺にはわからんな」
「そうですか――――無名だったという話ですし」
ちゃぶ台の老眼鏡をとりあげた先生は明るい縁側に座り込んで書類をひらいた。
紙面を指でたどりながら、オヅノマサハル、オヅノマサハル・・・とつぶやいている。
現代キシンの生き字引ともいわれる水台先生なら、祖父のことを知っているかもしれない――――そんな軽い気持ちで聞いてみたのだが。
ここまで一生懸命探してもらうと申し訳ない気持ちになる。
先生の方にそっと湯飲みを押しやり、肩越しに書類をのぞきこんだ。ホチキス綴じの、何かの名簿のようだ。
「これは?」
「うん? ああ――――」
先生はページを指ではさみ、よれよれの表紙を戻してみせる。
「第一回 定都キシン技法保存伝承会 総会目録」 とあった。
「もう30年以上も前になるか。 忠幸( ただゆき)さん――安則の親父さんのことだが――の呼びかけで、定都のキシンを交流させて技を保存しようとしたことがあったんだよ」
「ヤスノリのお父さん?」
「うん。俺より年上で、人格者だったな。 もう亡くなってだいぶになるが、立派な人だった」
――――では「不肖の息子」、というわけだ。
あたしは内心ニヤニヤする。
「えっと、そのひと――――も『手配師』だったんスか?」
「いや、腕のいいキシンだったよ。 総会はこれ一回きりだったが、忠幸さんとはしばらくつきあいが続いたなあ」
――――ヤスノリって・・・・・・キシンの家の生まれだったんだ!
あたしは思わず、無精ひげが生え、白髪のほつれた先生の横顔を見直す。
先生は眼を宙に浮かせ、懐かしむようになごませていた。
「それでよ、親子弟子は情が移るというんで、安則の仕込みを俺に頼んできなすったんだよ」
「は・・・あ」
――――「無心」だ。
あたしはすかさず壁のカレンダーを見て、なるべく気のなさそうに返事をする。
話が脱線したことを先生に悟らせてはならない。
少しでも身を乗りだす気配をみせれば、先生はたちどころに話を打ち切ってしまうだろう。
「預かったのは、あいつが13、4歳くらいの頃だったな」
「ほほー」
じゃ、あたしは一歳――――おじいちゃんが亡くなったころか。
瞬間、先生がきっとこちらを向いたのにたじろぐ。 ああっ、やっぱりバレちゃった?!
・・・のでは、なかった。
「それがもう、とっくに『あんな感じ』でよ。すぐにウソをつく。 年頃の娘には、へらへらと見境いなく声をかける」
「ふむふむ」
よくわかります。
「またあいつが稽古をはじめると何処からか娘どもが集まってくるんだ。 ヤツが何か動作するたびにキャーキャーさわぐんだよ」
「はあ・・・」
「だから娘どもを叩き出して、ちょっと厳しく稽古をつけてやったんだ」
「やりますね!」
「うん。 それがよ―――― 少しは懲りたかと目を離した隙に、定都に逃げ帰りやがった」
「・・・・・・」
「容子が帰りの電車賃を出しとった。 ――――本人は、隠してたがな」
「・・・・・・」
容子さんとは今では定都に家庭をもつ先生の長女のことである。――――って娘さん、当時は小学生なんじゃ!?
「さすがに忠幸さんも激怒してな、さんざん探し回って、一年後に大川町でやっと見つけ出した」
どっちもすごいと思う。 ・・・大川町?
「定都大の女子寮があってな、管理人のばあさんに気に入られて住み込みの手伝いをしとったらしい」
「はあ・・・」
木を隠すなら森――――ちょっと違うか。 狩りをするなら水場を見張れ? ・・・いや、なにかんがえてんだよあたしは。
「体格がいいからみな高校生だと信じていたそうだ。 苦学生と思われて可愛がられていたってさ」
それはいろいろと不自由しなかっただろう――――すると口の上手さは天性のものなのか。
「忠幸さんも弱り果てていたよ。 手がつけられん、とはこのことだって、な」
「・・・・・・そうですね」
素質はあったんだがなあ――――そういって先生は紙面に眼を戻す。
あたしは膝をゆるめてその場にぺたりと座った。
かねて不思議に思っていたヤスノリの経歴の一部が判明したわけだが――――これははたして聞いてよかったのか、聞かないほうがよかったのか。
でもヤスノリが先生を避けるわけがわかったよ。
それに、先生のヤスノリに対する複雑な感情も。
高徳井の家は忠幸さんで終わったな――――そういってページをめくる先生の、丸めた背は小さかった。
それをいうなら水台流だって・・・・・・。
あたしも複雑な気もちになる。
もちろん、高徳井と水台とではかなり事情が異なるが――――それにしてもヤスノリ!
でも最後にはあいつを信じてやりたいような気持ちになるのは何故だろう。 いつかは目がさめて・・・そう思いかけてやめた。 ミカさんは、ずっとそうだったんじゃないか。
ガラス戸を閉め切った縁側は、日をあびていると汗ばむほどに暑い。
あたしはそっと影に引っ込むとお茶を飲み干した。 手付かずのまま冷えてしまった先生の湯のみも取りかえる。
ふと、先生が持ってきた細長い箱が目に入った。
ちゃぶ台の脇に無造作に置かれたその箱は、厚みといい、長さといい――――もしかして、これって剣?
「開けてみな」
ふいに水台先生が言った。 背中であたしの視線を観ていたかのようだった。
あたしはそっと箱を引寄せて、開けてみる。
触れてみるとその箱には粗雑に扱えないような気品というか、そういう気配が漂っているのが感じられた。
ふたをとる。
箱の中身はやはり、剣だった。
紫いろをした朱子織の鞘掛けにつつまれている。
あたしは赤ん坊を抱くようにそっと袋を取り出し、組みひもをほどいた。
ゆっくりと引き出した拵えに、息を詰めて見入る。
最初に目についたのは長い頭金と漂白したように白い絹の柄糸だった。
素っ気無く、だが念入りに仕上げられた黒漆の鞘とのコントラストが精悍だ。
なんだか、どきどきする。
少し躊躇ってから、思い切って柄を握ってみた。
ふわっ・・・・・・
握った手から、いいようのない、あたたかな感情が流れ込んできた。
限りなくやわらかく、でも確かな感触。
まるで・・・母親に抱かれているかのような安心感。
あたしは剣を握った手を閉じたりひらいたりして確かめる。
優しい感触はますます強くなる。 それは傷ついた心を勇気づけ、回復力を吹き込んだ。
あたしは思わず涙ぐみそうになって手をはなす。
胸の奥が、あたたかい。
すぐにその理由に思い当たった。
アマツモリの襲撃を受けたあと、ずっと心に居坐っていた「しこり」のようなものが、跡形もなく消えうせている。
あたしは胸に手をあてたまま、剣の白い柄巻を見つめていた。
こんな剣はみたことがない。 この剣は、いったい――――。
静かに鯉口を切って、抜く。
鎬造りの反りが少ない、上品な刀身があらわれた。
細身だが重ねは厚く、艶やかな光沢を帯びている。 刃紋は砂流しに稲妻が走り、切先が火焔帽子に巻き上がっていた。
ゆるぎない信念に支えられた深い愛情。 女性的だが剄く――――激しく、そして・・・優しい剣だ。
「 『奈津野爪(なつのつめ)』 というんだ。 七代篤房が打ったものだよ」
魅入られたように剣を見つめていたあたしは、水台先生の声に我にかえった。
「――――気に入ったようだな」
先生が肩越しにこちらを振り返って、鼻先に老眼鏡をずらしている。黒々した瞳をニヤリとさせた。
「奈津野――――?」
「堂里の女神さんだ。 異形の一族を封じて世界を創ったという、アレさ」
はるかな昔――――。
キリシマと呼ばれる世界で堂里一族が目覚めたとき、そこは異形の怪物たちが闊歩する八大地獄であったという。
はじめのうち、堂里は怪物たちに支配され、狩られ、追い立てられていた。
怪物が堂里の創造主だったのである。 ――――そう伝えられている。
我々が、魚や牛を食するのにほとんど痛痒を感じないように、創造主は人間とは異なる心性、異なる価値観をもって堂里に接していた。
やがて、キリシマには堂里とそっくりの、新たな一族が漂着するようになる。
アマツモリから来たといわれる、起源のはっきりしないこの一族こそ、今日の定生氏である。
両者は力をあわせ、決起した。 長く苦しい闘いののち、彼らは怪物たちをアマツモリに封印する。
怪物と闘い、混沌から宇宙を起した鬼神たちのひとりが「奈津野」という女神なのだ――――
水台先生はそう説明してくれた。
「だからキシンは形式上、みな堂里の末裔ということになっているんだ。 ――――知らなかったのか?」
「知りませんでした」
「そうか、小津乃も鬼の子だったな。 こういうのはたいてい口伝だしなあ・・・・・・」
堂里に、定生と異なる創世神話があることは知っていたが、くわしく聞くのは初めてだった。
定生神話に出てくる「天津森(あまつもり)」と、キシンが「アマツモリ」と呼んでいる世界は音が同じだけで全く異なる存在である。 王家の天津森は先祖の魂魄が住まう浄福の土地なのだ。
対してアマツモリとは宇宙の負の鏡像である。 世界のへりを逍遥するキシンたちの間では周知の存在だが、王家は一貫して否定している。
しかし関連がないわけではない。 アマツモリを否定する一方で、王家は「天津森大神祭」と呼ばれる秘祭を伝えているのだ。
百年をかけて行うこの祭祀は、主神天津森大神を祀り、寿ぐことで霧島の魂魄を鎮めるためのものだという。
複雑な手順と段階を踏む秘祭中の秘祭であり、詳細は謎につつまれている。 十七、八の若い娘を贄(にえ)につかう、という物騒な噂すらある。
だが、浄福の土地に鎮魂などそもそも必要ない。 結局、王家が鎮魂しているのは「アマツモリ」なのだ。 キシンが「王家の領域」と呼ぶゆえんである。
でも今の奇怪な神話によると、少なくとも堂里はアマツモリの存在を認め、それが天津森に先んじて存在していた、と考えていたようだ。
もしかすると大神祭の起源は堂里にあるのかもしれない。
あたしは、ふと思いついてきいてみる。
「箕面氏も――――堂里の系統になるんでしょうか?」
「箕面? 箕面は定生だよ。 ま、いまじゃすっかり混じり合ってるが――――堂里の系統といえばまず岩庭、楡戸、鎖母(くさも)、
土師、中手内・・・・・・」
瞬間、あたしははっとして手もとをみた。
気のせいか――――奈津野に、かすかな震えが走ったように感じたのだが。
見下ろす刀身は、何事もなかったかのようにひっそりとしていた。
あたしは剣を鞘に戻すと、鞘掛けでそっと包む。 いいな、こんな剣があれば・・・・・・。
勉強のために剣を見せてもらうことは始めてではない。 だけど、欲しいとまで思ったことはなかった。 あまりにもタイミングよく奈津野が現れたので、ついそう思ってしまうのだろうか。
まるで――――剣が自分の意志でやってきたかのような。
箱のふたを閉めると、懐かしい友だちとまた別れるような、変に寂しい気分がした。
「よく言われるのはそのへんかな。 高徳井という名前も、古くは岩庭の分家のことだ。 『はぐれ』以外でキシンを伝える家はみな堂里の分かれさ」
ウチみたいに勝手に「遠戚」を名乗ってる家も多いがね――――先生はわらって目録をちゃぶ台にのせた。
水台流初代も「鬼の子」である。
「うーん、オヅノマサハルか。 その人は、本当に定都に住んでいたのかい?」
「それは、はっきりしないんスけど――――居た、と思える痕跡はあるんですよね」
初枝夫人の日記。
地方の、それも一介の無名キシンが初枝夫人と深いつきあいをしていたのなら、やはり定都に住んでいたのだろう。
ただ、30年前だとブランクがありすぎる。 そのころには祖父はもう、定都を離れていたのかもしれない。
それに正治と初枝夫人が出会った頃は、先生の駆け出しの時期にあたる。
先生が祖父とどこかですれ違っていたとしても記憶には残っていないだろう。 ・・・あきらめた方がよさそうだ。
どこで、なにをしていて、どんな人だったのか――――両親は周囲に祖父の経歴を隠しとおしていた。 あたしが話題にすると急に不機嫌になったりしたものだ。
遊び人かなにかで、きっと反りがあわなかったんだろうと今まで思っていたが・・・。
鳶山橋でアマツモリのビジョンを見てからは、どうもそれ以上の意味が隠されているような気がしてきた。
――――それに、おじいちゃんも「キシン」だったわけだし。
あたしはいつの間にかまた、吸い寄せられるように箱を見ている。
不思議だな――――あの剣に触れてから心が軽いっていうか、前よりのびのびしているみたい・・・・・・。
七代篤房という人を、あたしは知らない。 刀身の特異な形状から察するに、奈津野はそんなに古い時代のものではないと思う。 よくて二百年といったところか。
だが、あれは絶対に普通の神器ではない。
奈津野には、まるで刀匠の魂魄が生命がけで叩き込まれているような、そんな凄艶さがあった。
「ん? しまっちまったのか」
ふたたび目録に眼をおとした姿勢のまま、水台先生が言った。
「それは、小津乃にくれてやろうと思って出してきたんだぞ」
「えっ・・・?」
声がかすれた。
先生はひっついたベージに気を取られ、短い指でせわしなくつまんでいる。
「癖が強くて人をえらぶ剣だが、小津乃の太刀筋には合うと思ってよ」
「でも・・・・・・」
「遠慮することはないよ。 いいからもってけ」
「でも――――」
あたしは迷った。
もってけったって―――― そんな、野菜みたいに言われても・・・・・・。
「金ならいいんだ。そいつには、ちょっといわくがあってな――――」
ため息をついて手をやすめ、先生は目録から眼をあげた。
「それにおまえ、いま剣がないんだろう?」
そこまで言って黙ってしまう。
あたしはふたりぶんの湯のみをひきよせると台所に立った。
湯のみをシンクに下ろし、じゃーっ、とほぼ全開に近い勢いで水を出す。
水の跳ねるシンクに顔を突っ込むようにしてごしごし顔を洗った。
ひたすら洗った。
「――――かいぶんの、お値段です。そして今回なんと・・・・・!」背後から、派手なBGMと威勢のよいテレビの音声がきこえはじめる。
先生らしい気遣いだが、あたしは泣いてなんかいない。
そりゃうれしかったけど。
いまさらこの程度で泣くほど、子どもじゃない。
剣が無くても戦いようはあるんだし・・・・・・先生は、甘い。 ほんとうに、お人よしだ。
うそをつけ――――叱る心をねじふせて、あたしはひたすら顔を洗いつづける。
指の関節で目頭を押さえた瞬間、こめかみに破裂するような痛みがはしった。
ぶちっ、という音さえ聞いたような気がする。
あたしはたまらず、前のめりにシンクの中に突っ込んだ。
水――――水を止めなきゃ・・・・・・。
頭にあたる水の冷たさを感じたのはほんの一瞬で、あたしの意識は超新星の真っ白な輝きの中に引きずり込まれて行った。
なんだろ、このビジョンは。
スクライイングとはちがう――――記憶をひっぱり出すときみたいに脈絡のない、ちらちらとした映像。
遠い遠い、悠久の時空の彼方。
冷たい虚空を引き裂いて駆け上がる、美しい、無数の青い稲妻。
何度も何度も、漆黒の宇宙をさかしまに撃ち続けている。
雷撃の主。 あれは――――。
ざっと水をはねちらせ、あたしは勢いよくシンクから顔を上げた。
ずぶぬれの頭からぽたぽた水をたらしながら、蛇口を閉じる。
強烈なショックに体ががたがたふるえていた。
いまのはいったい――――?
<続く>
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目次>
*ご訪問ありがとうございました。*第10話 「奈津野(3)」 は
12月4日公開の予定です。
