オリジナル小説 「アマツモリ鬼神伝」 連載中です。週一回の更新を予定しています。
アマツモリ看板


神代より、さ迷う魂魄のシンを起し、あるべき場所に帰すものたちのことを 『キシン』 と呼んだ――――。



アマツモリ鬼神伝 目次

第一部 「蘭手護法(らんしゅごほう)」篇

プロローグ 「柿と虎」 

雷花 (1) (2) (3)
蛙王 (1) (2) (3) (4)
奈津野 (1) (2)奈(2)ボタン11/27UP!

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奈津野(2)


 「お味噌汁は今夜食べきって下さいね」

 「うん」

――――静まれしずまれい! 

 「煮物は、寝る前までに一度火を通してください」

 「ああ」

――――頭がたかーい、ひかえおろう!

 「あしたそのまま食べちゃダメですよ」

 「うん」

――――この紋所が眼にはいらぬか! このお方をなんと心得る・・・・・・!

 「大丈夫ッスね? いっそ冷蔵庫に入れておきます?」

 「ああ」


磨りガラスの引き戸に隠れてみえないが、先生の声はこっちを向いていない。

どうやらテレビが佳境のようである。


水で冷やしたホーロー鍋を、冷蔵庫につっこんだ。

食中毒の季節ではないが、ずっと出しっぱなしの可能性がある。


 眼の高さに配置しておこう。

ついでに消費期限の迫っているハムもとなりにおく。 食べないだろうなあ・・・・・・。


水台先生の冷蔵庫は、中身のなさではあたしのといい勝負である。 そのかわり、台所の野菜が新鮮で、豊富だ。


対面の森のかげに、先生の実兄の家がある。 先生はいつもそこで食事をよばれるか、軽トラックに乗って駅前食堂ですませて来るらしい。


実兄というのは、「キシンに向かない」と二代目に見切りをつけられたひとなのだそうだ。

自分のかわりに道統を継いだ弟のいまを、どういう想いで見ているのだろうか。


いずれにせよ、水台先生はほとんど自炊してないと思われる。

昼食の支度を申し出たとき、水台流三代目はうろたえて、すまねえなあ、すまねえなあと小さくなっていた。 ここに来るたび、型稽古のように繰り返されるやりとりである。


 ・・・まあ、今回は意地でもやるつもりで来たけど。


食費が浮いたし、病み上がりの体に新鮮野菜は口福だった。

先生は残りの野菜をもって帰るよういうはずだ。 これで交通費の元がとれる・・・いつのまにか、いじましい計算もはじめている。


タンパク質は――――ギャラが入ってから。




硬くしぼったふきんをふきん掛けにかけると、ひと休みして台所をみまわした。


シンクまわりの水はねの跡。 幅木のスミには綿ぼこリがたまっている。

昼食をとった居間もおなじだった。 


埃は、人気のない家ほど絶え間なく降りそそぐ。


勝手口のドアノブに、乾いた泥がこびりついているのが眼についた。いったい何をやったんだろう。


 ざっと、掃除機もかけて行こうかな・・・・・・。


塵のつもったちゃぶ台に、からからに乾いたふきんが乗っているのを見ると、なんだか放っておけないというか――――心配になる。


無精ひげは毎度のことながら、鼻毛がのびてた。ソックスはたがいちがいだし、シャツの袖口はほころびがひどい。

言ってやる人間がいないとこんなになってしまうものかと呆れる一方、先生のその姿にはふと胸を衝かれるものがある。


水台先生は、生きることをどこかで放棄しているのではないだろうか。


あたしは汚れたドアノブを見つめる。



 箕面庄蔵、あんたはどうなの?


蜘蛛の糸をはらいおとした。

糸は以前よりいっそうかぼそく、繊細に――――しかし強靭になっている。


 あんた、死に急いでいるね?


ふっと糸がはりつめ、ゆるむ。

はらはらと新たな糸が、すがりつくようにふってくる。

また、はらいおとす。


しつこかった。


どうやらこの男はキシンの能力を使える。

それに――――


 弱っている・・・。


病か、老衰か、この男は死にかけている。あたしがそれに気づいたことも承知している。知っていて、執着している。

もとは強い男だったのだろう。しかし今は子どものように孤独に怯え、ふるえている。


 ――――無理心中。


鳶山橋で打ち消したことばをふたたび思い浮かべた。

庄蔵は何かに絶望している。 あたしも一緒に絶望する義務があるとでも思っているのだろうか。



 ・・・・・・やめとこ。


新たな展開がない限り、いくら考えたって答えは出ない。


こうやって、農家の台所でドアノブをにらんで、愚にもつかない堂々めぐりを――――。


 ドアノブ。


そういえば、さっきからいつもこの方角を見ていた。 忙しく働いている間は気にも留めなかったが。 泥がついてるからかなあ・・・・・・体の癖?

そんなこと何故かんがえる、てか、どうしてあたしはここばっかり見ているのだ?


こころの中で、なにかが「軋む」感覚があった。

固く閉ざされていたものが身じろぎするような、かすかな動き。



何かが、ある。


あたしの無意識が、何かの解答をつかんでいるらしい。


つかんでいるのだが、言葉にならない。 出られないでいる。


 さぐってみるか――――。


台所に立ったまま、気息をととのえる。


三拍。二拍。一拍。

三拍。二拍。一拍。


吐いて。吸って。停めて。

吐いて。吸って。停めて。


眼を細め、ドアノブの光沢に集中する。

たえず動揺し、落ちつき無く反応するコンをハクにおし鎮めなければならない。


外界に広がる触覚を、今度は内に向けるのだ。


三拍。二拍。一拍。

三拍。二拍。一拍。


吐いて。吸って。停めて。

吐いて。吸って。停めて――――。


眉間にあつまるエネルギーは熱をもち、光を放ち始める。

ゆらめきにふちどられた針のような光線が三日月に、三日月から半月に――――。


やがて白い満月となって視界を覆う。



 「振るべし。ゆらゆらと。」



水鏡。月の表面にひろがる波紋。


三界を流れる大河の一滴。

よどみ、逆巻く因果の波。


沈め。より深く・・・・・・より静かに。

周囲の音が遠ざかり、かわって微細な音が聞こえ始める。


 子どもの笑い声は――――雛子?

きび太と遊んでるのか。


ぽん、とあたしの背中にとびのるように抱きつき、また駆けて行った。

きび太が腰のあたりにぶつかって、のく。 けらけら笑っている。


青い川。インクのような。

無数の風車が立ちならぶ、白い河原。


可愛らしい小さな積み石の群れが視界を掠めて、きえる。

シンに置き去りにされた小さな魂魄。――――悲しみもなく、苦しみもなく。



三拍。二拍。一拍。

三拍。二拍。一拍。


小鬼の領域を通過して、沈む。


もう、そろそろだ。

空中を舞う塵のように、きらきらとまたたく想念が流れている。



塵を透かし見る。

その下。



まだ下。



――――もっと底だ。



潜れるだけ潜り、のばした手にふれた「何か」のサルベージにかかる。


さあ、雷花。


あんたはいま、なにを見ている?



ドアノブ。



抹茶色をしたドア。


金色の壁。赤い――――臙脂色の毛氈がしかれた廊下。


いま・・・・・赤毛の青年が入って行った。 ドアの向こうに変なモノが見えた。



 そこに近づいてはいけません――――。



誰? 誰ですか、あなた・・・・・・初枝さん?


 揺らぐな。 

静かに自分に警告する。無意識がランダムにつながった幻覚だ。



さあ、もう一度。 雷花、あんたは何を見ている?


そう。 ドアノブだ。

赤毛の青年がにぎっていた――――では、ドアノブのどこをみている?



ドアノブについた――――鍵穴。

見ているのは・・・・・・「鍵穴」。



鍵―――― 小津乃雷花 は、いま、ドアにかけられた錠を見ている。


ロック。封印。・・・・・・心理的な。


心理的な、「封印」。


誰の? 



オヅノマサハル。

それが――――解答の浮上を妨害して・・・・・・。




 それに触るな!!


どっと降ってきた「糸」の感触に、あたしは思わず首をすくめ――――



すべて忘れてしまった。







洗った茶器をもって居間にもどってみると、テレビがつけっ放しになっているだけだった。

となりの八畳間との襖が少し空いていて、人の動く気配がある。


座ってテレビを消すと、ポットからお茶を入れた。

先生の家の緑茶は上物だ。遠慮なく、茶っ葉をがばがば入れる。


いっこうに戻ってくる気配がないので先にいただくことにした。 うは、きっつー! これでこそお茶だよ。


ひさしぶりにくつろいだ気分のあたしが、窓の外を呆けて眺めていると、襖が動いて水台先生が出てきた。

ぶ厚いノートのようなものを持ち、脇に細長い箱を抱えている。



 「お茶、はいりましたよ」

 「うん。・・・・・・これに載ってなきゃあ、俺にはわからんな」

 「そうですか――――無名だったという話ですし」

 
ちゃぶ台の老眼鏡をとりあげた先生は明るい縁側に座り込んで書類をひらいた。

紙面を指でたどりながら、オヅノマサハル、オヅノマサハル・・・とつぶやいている。


現代キシンの生き字引ともいわれる水台先生なら、祖父のことを知っているかもしれない――――そんな軽い気持ちで聞いてみたのだが。

ここまで一生懸命探してもらうと申し訳ない気持ちになる。


先生の方にそっと湯飲みを押しやり、肩越しに書類をのぞきこんだ。ホチキス綴じの、何かの名簿のようだ。


 「これは?」

 「うん? ああ――――」


先生はページを指ではさみ、よれよれの表紙を戻してみせる。

「第一回 定都キシン技法保存伝承会 総会目録」 とあった。


 「もう30年以上も前になるか。 忠幸( ただゆき)さん――安則の親父さんのことだが――の呼びかけで、定都のキシンを交流させて技を保存しようとしたことがあったんだよ」

 「ヤスノリのお父さん?」

 「うん。俺より年上で、人格者だったな。 もう亡くなってだいぶになるが、立派な人だった」


 ――――では「不肖の息子」、というわけだ。 

あたしは内心ニヤニヤする。


 「えっと、そのひと――――も『手配師』だったんスか?」

 「いや、腕のいいキシンだったよ。 総会はこれ一回きりだったが、忠幸さんとはしばらくつきあいが続いたなあ」


 ――――ヤスノリって・・・・・・キシンの家の生まれだったんだ!


あたしは思わず、無精ひげが生え、白髪のほつれた先生の横顔を見直す。

先生は眼を宙に浮かせ、懐かしむようになごませていた。


 「それでよ、親子弟子は情が移るというんで、安則の仕込みを俺に頼んできなすったんだよ」

 「は・・・あ」


 ――――「無心」だ。

あたしはすかさず壁のカレンダーを見て、なるべく気のなさそうに返事をする。


話が脱線したことを先生に悟らせてはならない。

少しでも身を乗りだす気配をみせれば、先生はたちどころに話を打ち切ってしまうだろう。


 「預かったのは、あいつが13、4歳くらいの頃だったな」

 「ほほー」


じゃ、あたしは一歳――――おじいちゃんが亡くなったころか。


瞬間、先生がきっとこちらを向いたのにたじろぐ。 ああっ、やっぱりバレちゃった?!


・・・のでは、なかった。


 「それがもう、とっくに『あんな感じ』でよ。すぐにウソをつく。 年頃の娘には、へらへらと見境いなく声をかける」

 「ふむふむ」


よくわかります。


 「またあいつが稽古をはじめると何処からか娘どもが集まってくるんだ。 ヤツが何か動作するたびにキャーキャーさわぐんだよ」

 「はあ・・・」


 「だから娘どもを叩き出して、ちょっと厳しく稽古をつけてやったんだ」

 「やりますね!」

 「うん。 それがよ―――― 少しは懲りたかと目を離した隙に、定都に逃げ帰りやがった」
 
 「・・・・・・」


 「容子が帰りの電車賃を出しとった。 ――――本人は、隠してたがな」

 「・・・・・・」

容子さんとは今では定都に家庭をもつ先生の長女のことである。――――って娘さん、当時は小学生なんじゃ!?


 「さすがに忠幸さんも激怒してな、さんざん探し回って、一年後に大川町でやっと見つけ出した」


どっちもすごいと思う。 ・・・大川町?


 「定都大の女子寮があってな、管理人のばあさんに気に入られて住み込みの手伝いをしとったらしい」

 「はあ・・・」


木を隠すなら森――――ちょっと違うか。 狩りをするなら水場を見張れ? ・・・いや、なにかんがえてんだよあたしは。


 「体格がいいからみな高校生だと信じていたそうだ。 苦学生と思われて可愛がられていたってさ」

それはいろいろと不自由しなかっただろう――――すると口の上手さは天性のものなのか。


 「忠幸さんも弱り果てていたよ。 手がつけられん、とはこのことだって、な」

 「・・・・・・そうですね」


 素質はあったんだがなあ――――そういって先生は紙面に眼を戻す。


あたしは膝をゆるめてその場にぺたりと座った。


かねて不思議に思っていたヤスノリの経歴の一部が判明したわけだが――――これははたして聞いてよかったのか、聞かないほうがよかったのか。


でもヤスノリが先生を避けるわけがわかったよ。

それに、先生のヤスノリに対する複雑な感情も。


 高徳井の家は忠幸さんで終わったな――――そういってページをめくる先生の、丸めた背は小さかった。


それをいうなら水台流だって・・・・・・。


あたしも複雑な気もちになる。

もちろん、高徳井と水台とではかなり事情が異なるが――――それにしてもヤスノリ!


でも最後にはあいつを信じてやりたいような気持ちになるのは何故だろう。 いつかは目がさめて・・・そう思いかけてやめた。 ミカさんは、ずっとそうだったんじゃないか。



ガラス戸を閉め切った縁側は、日をあびていると汗ばむほどに暑い。

あたしはそっと影に引っ込むとお茶を飲み干した。 手付かずのまま冷えてしまった先生の湯のみも取りかえる。


ふと、先生が持ってきた細長い箱が目に入った。


ちゃぶ台の脇に無造作に置かれたその箱は、厚みといい、長さといい――――もしかして、これって剣?


 「開けてみな」


ふいに水台先生が言った。 背中であたしの視線を観ていたかのようだった。


あたしはそっと箱を引寄せて、開けてみる。

触れてみるとその箱には粗雑に扱えないような気品というか、そういう気配が漂っているのが感じられた。


ふたをとる。


箱の中身はやはり、剣だった。


紫いろをした朱子織の鞘掛けにつつまれている。

あたしは赤ん坊を抱くようにそっと袋を取り出し、組みひもをほどいた。


ゆっくりと引き出した拵えに、息を詰めて見入る。


最初に目についたのは長い頭金と漂白したように白い絹の柄糸だった。

素っ気無く、だが念入りに仕上げられた黒漆の鞘とのコントラストが精悍だ。


 なんだか、どきどきする。


少し躊躇ってから、思い切って柄を握ってみた。


ふわっ・・・・・・


握った手から、いいようのない、あたたかな感情が流れ込んできた。


限りなくやわらかく、でも確かな感触。

まるで・・・母親に抱かれているかのような安心感。


あたしは剣を握った手を閉じたりひらいたりして確かめる。


優しい感触はますます強くなる。 それは傷ついた心を勇気づけ、回復力を吹き込んだ。

あたしは思わず涙ぐみそうになって手をはなす。


胸の奥が、あたたかい。

すぐにその理由に思い当たった。


アマツモリの襲撃を受けたあと、ずっと心に居坐っていた「しこり」のようなものが、跡形もなく消えうせている。

あたしは胸に手をあてたまま、剣の白い柄巻を見つめていた。
 

 こんな剣はみたことがない。 この剣は、いったい――――。



静かに鯉口を切って、抜く。


鎬造りの反りが少ない、上品な刀身があらわれた。

細身だが重ねは厚く、艶やかな光沢を帯びている。 刃紋は砂流しに稲妻が走り、切先が火焔帽子に巻き上がっていた。


ゆるぎない信念に支えられた深い愛情。 女性的だが剄く――――激しく、そして・・・優しい剣だ。


 「 『奈津野爪(なつのつめ)』 というんだ。 七代篤房が打ったものだよ」


魅入られたように剣を見つめていたあたしは、水台先生の声に我にかえった。


 「――――気に入ったようだな」


先生が肩越しにこちらを振り返って、鼻先に老眼鏡をずらしている。黒々した瞳をニヤリとさせた。


 「奈津野――――?」

 「堂里の女神さんだ。 異形の一族を封じて世界を創ったという、アレさ」





はるかな昔――――。


キリシマと呼ばれる世界で堂里一族が目覚めたとき、そこは異形の怪物たちが闊歩する八大地獄であったという。

はじめのうち、堂里は怪物たちに支配され、狩られ、追い立てられていた。


怪物が堂里の創造主だったのである。 ――――そう伝えられている。


我々が、魚や牛を食するのにほとんど痛痒を感じないように、創造主は人間とは異なる心性、異なる価値観をもって堂里に接していた。


やがて、キリシマには堂里とそっくりの、新たな一族が漂着するようになる。

アマツモリから来たといわれる、起源のはっきりしないこの一族こそ、今日の定生氏である。


両者は力をあわせ、決起した。 長く苦しい闘いののち、彼らは怪物たちをアマツモリに封印する。

怪物と闘い、混沌から宇宙を起した鬼神たちのひとりが「奈津野」という女神なのだ――――

水台先生はそう説明してくれた。




 「だからキシンは形式上、みな堂里の末裔ということになっているんだ。 ――――知らなかったのか?」

 「知りませんでした」

 「そうか、小津乃も鬼の子だったな。 こういうのはたいてい口伝だしなあ・・・・・・」


堂里に、定生と異なる創世神話があることは知っていたが、くわしく聞くのは初めてだった。


定生神話に出てくる「天津森(あまつもり)」と、キシンが「アマツモリ」と呼んでいる世界は音が同じだけで全く異なる存在である。 王家の天津森は先祖の魂魄が住まう浄福の土地なのだ。


対してアマツモリとは宇宙の負の鏡像である。 世界のへりを逍遥するキシンたちの間では周知の存在だが、王家は一貫して否定している。


しかし関連がないわけではない。 アマツモリを否定する一方で、王家は「天津森大神祭」と呼ばれる秘祭を伝えているのだ。

百年をかけて行うこの祭祀は、主神天津森大神を祀り、寿ぐことで霧島の魂魄を鎮めるためのものだという。

複雑な手順と段階を踏む秘祭中の秘祭であり、詳細は謎につつまれている。 十七、八の若い娘を贄(にえ)につかう、という物騒な噂すらある。

だが、浄福の土地に鎮魂などそもそも必要ない。 結局、王家が鎮魂しているのは「アマツモリ」なのだ。 キシンが「王家の領域」と呼ぶゆえんである。


でも今の奇怪な神話によると、少なくとも堂里はアマツモリの存在を認め、それが天津森に先んじて存在していた、と考えていたようだ。

もしかすると大神祭の起源は堂里にあるのかもしれない。


あたしは、ふと思いついてきいてみる。


 「箕面氏も――――堂里の系統になるんでしょうか?」

 「箕面? 箕面は定生だよ。 ま、いまじゃすっかり混じり合ってるが――――堂里の系統といえばまず岩庭、楡戸、鎖母(くさも)、土師、中手内・・・・・・」


瞬間、あたしははっとして手もとをみた。


気のせいか――――奈津野に、かすかな震えが走ったように感じたのだが。


見下ろす刀身は、何事もなかったかのようにひっそりとしていた。

あたしは剣を鞘に戻すと、鞘掛けでそっと包む。  いいな、こんな剣があれば・・・・・・。


勉強のために剣を見せてもらうことは始めてではない。 だけど、欲しいとまで思ったことはなかった。 あまりにもタイミングよく奈津野が現れたので、ついそう思ってしまうのだろうか。



 まるで――――剣が自分の意志でやってきたかのような。


箱のふたを閉めると、懐かしい友だちとまた別れるような、変に寂しい気分がした。

  
 「よく言われるのはそのへんかな。 高徳井という名前も、古くは岩庭の分家のことだ。 『はぐれ』以外でキシンを伝える家はみな堂里の分かれさ」


ウチみたいに勝手に「遠戚」を名乗ってる家も多いがね――――先生はわらって目録をちゃぶ台にのせた。

水台流初代も「鬼の子」である。


 「うーん、オヅノマサハルか。 その人は、本当に定都に住んでいたのかい?」

 「それは、はっきりしないんスけど――――居た、と思える痕跡はあるんですよね」


初枝夫人の日記。


地方の、それも一介の無名キシンが初枝夫人と深いつきあいをしていたのなら、やはり定都に住んでいたのだろう。

ただ、30年前だとブランクがありすぎる。 そのころには祖父はもう、定都を離れていたのかもしれない。


それに正治と初枝夫人が出会った頃は、先生の駆け出しの時期にあたる。 

先生が祖父とどこかですれ違っていたとしても記憶には残っていないだろう。 ・・・あきらめた方がよさそうだ。


どこで、なにをしていて、どんな人だったのか――――両親は周囲に祖父の経歴を隠しとおしていた。 あたしが話題にすると急に不機嫌になったりしたものだ。


 遊び人かなにかで、きっと反りがあわなかったんだろうと今まで思っていたが・・・。


鳶山橋でアマツモリのビジョンを見てからは、どうもそれ以上の意味が隠されているような気がしてきた。


 ――――それに、おじいちゃんも「キシン」だったわけだし。


あたしはいつの間にかまた、吸い寄せられるように箱を見ている。


 不思議だな――――あの剣に触れてから心が軽いっていうか、前よりのびのびしているみたい・・・・・・。


七代篤房という人を、あたしは知らない。 刀身の特異な形状から察するに、奈津野はそんなに古い時代のものではないと思う。 よくて二百年といったところか。


だが、あれは絶対に普通の神器ではない。


奈津野には、まるで刀匠の魂魄が生命がけで叩き込まれているような、そんな凄艶さがあった。


 「ん? しまっちまったのか」

ふたたび目録に眼をおとした姿勢のまま、水台先生が言った。


 「それは、小津乃にくれてやろうと思って出してきたんだぞ」



 「えっ・・・?」


声がかすれた。

先生はひっついたベージに気を取られ、短い指でせわしなくつまんでいる。


 「癖が強くて人をえらぶ剣だが、小津乃の太刀筋には合うと思ってよ」

 「でも・・・・・・」


 「遠慮することはないよ。 いいからもってけ」

 「でも――――」


あたしは迷った。

もってけったって―――― そんな、野菜みたいに言われても・・・・・・。


 「金ならいいんだ。そいつには、ちょっといわくがあってな――――」


ため息をついて手をやすめ、先生は目録から眼をあげた。


 「それにおまえ、いま剣がないんだろう?」


そこまで言って黙ってしまう。

あたしはふたりぶんの湯のみをひきよせると台所に立った。


湯のみをシンクに下ろし、じゃーっ、とほぼ全開に近い勢いで水を出す。

水の跳ねるシンクに顔を突っ込むようにしてごしごし顔を洗った。


ひたすら洗った。



 「――――かいぶんの、お値段です。そして今回なんと・・・・・!」


背後から、派手なBGMと威勢のよいテレビの音声がきこえはじめる。


先生らしい気遣いだが、あたしは泣いてなんかいない。


そりゃうれしかったけど。



いまさらこの程度で泣くほど、子どもじゃない。



剣が無くても戦いようはあるんだし・・・・・・先生は、甘い。 ほんとうに、お人よしだ。


 

 うそをつけ――――叱る心をねじふせて、あたしはひたすら顔を洗いつづける。



指の関節で目頭を押さえた瞬間、こめかみに破裂するような痛みがはしった。



ぶちっ、という音さえ聞いたような気がする。


あたしはたまらず、前のめりにシンクの中に突っ込んだ。


 
 水――――水を止めなきゃ・・・・・・。


頭にあたる水の冷たさを感じたのはほんの一瞬で、あたしの意識は超新星の真っ白な輝きの中に引きずり込まれて行った。





なんだろ、このビジョンは。


スクライイングとはちがう――――記憶をひっぱり出すときみたいに脈絡のない、ちらちらとした映像。



遠い遠い、悠久の時空の彼方。

冷たい虚空を引き裂いて駆け上がる、美しい、無数の青い稲妻。


何度も何度も、漆黒の宇宙をさかしまに撃ち続けている。

雷撃の主。 あれは――――。




ざっと水をはねちらせ、あたしは勢いよくシンクから顔を上げた。

ずぶぬれの頭からぽたぽた水をたらしながら、蛇口を閉じる。 


強烈なショックに体ががたがたふるえていた。




 いまのはいったい――――?



<続く>

第8話に戻る> <目次


*ご訪問ありがとうございました。*
第10話 「奈津野(3)」 は12月4日公開の予定です。

奈津野(3)



テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学

          奈津野(1)

「後堂下2丁目」の文字が書かれた赤いバス亭は、板張りの、なにやら長い小屋のようなものの前に立っている。


板の隙間に顔を近づけてのぞいてみたら、凶暴そうな、真っ黒い牛がのぞきかえしてきた。こんちはぁ。。。

あたしはリュックを背負い直すと、アスファルトの端がひび欠けた農道をあるきはじめる。



南部行き電車で終点まで2時間。バスに乗りかえて30分。

時刻は午前10時を少しまわったところか。隔日運行の民営バスにめぐりあえてよかった。


歩いてあるけない距離ではないが、病み上がりの体ではやや心もとない。これでタクシーに乗らなきゃならないはめになっていたらと思うと・・・・・・。

 ――――でもこれで、帰りはおにぎりが買えるかもしれない。

あたしはちょっとだけしあわせになった。


小川とあぜ道に区切られた田園風景の森を背景に、ぴょこんと一軒飛び出している平屋の農家が、水台流キシン三代目、水台直正(すいたい なおまさ)先生のお宅である。

名目上、あたしは水台流のキシンなのだ。


定都に来て間もないころ、いわゆる「はぐれキシン」だったあたしは、ある「事件」に巻き込まれるようなかたちでヤスノリと出会い、水台先生を紹介された。

その事件の悲劇的な結末については、関係者の暗黙の了解として、今ではくわしく語らないことになっている。

だが先生は、その時にちかしい家族のほとんどを失ってしまったのだ。

からくも難を逃れたのは、定都ですでに家庭を持っていた娘夫婦のみであった。


だいたい月に一回くらい、孫の顔を見に定都を泊りがけで訪れてはいるが、先生はそれ以来ずっとやもめ暮らしである。娘夫婦に同居を望まれてもかたくなに断り続けているらしい。

あたしにはなんとなく、その理由がわかる。


さまよう魂魄が求めるかぎり、キシンは迎えてつづけてやらねばならないのだ。




ちょろちょろと流れる水路に渡された鉄板をわたり、あけはなした玄関のまえでおとないを入れるが返事はなかった。 先生は、畑かしら?


 「おう、小津乃か」


きょろきょろしていたら、母屋のかげの軽トラックの向こうから、小柄な灰色の人影があらわれた。


 「ども。先生、ご無沙汰ッス」

 「なかなか顔みせねえから、どうしたかと思ってたんだ」


水台先生は、サツマイモを山盛りにしたダンボールをかかえていた。


あたしとたいして背丈はかわらないが、胸も腰もはるかに分厚い。そして灰色のジャンパーの下には、荒縄をよじったような太い両腕を持っている。

短く刈り込んだ灰色のあたま。への字に引き結んだ口の周りに、やはり灰色の無精ひげ。

還暦をとうに過ぎた年頃のはずだが、なめした皮のように丈夫な頬にも首筋にも、ぜい肉はかけらもみあたらなかった。


 まあ、あがれや――――そういってふと足をとめる。


 「いそがしいか? ・・・・・・いまにも死にそうな顔してるが、どうした?」


男らしく太い眉のしたの眼は、黒々とよく動いて、よくひかり、そしてふんわりと優しい。

そこに気づかないと、全体として厳しく気難しい印象を与えるひとだ。


 「ちょっと、風邪で寝てました」

あと、腹もへってます・・・・・・を、飲みこむ。


 「そうかあ。――――おまえでも風邪、ひくのか?」

 「もう! ヤスノリみたいなこと言わないでくださいよ」


あたしはついうっかり口をすべらし、先生はぎゅっと太い眉をひそめた。


 「おまえ、まだあの小僧のとこで仕事してんのか?」


ヤブをつついてしまったことに気づいたが、もうおそい。


 「んー・・・・・・まあ――――ぽつぽつと?」


 ぽつぽつどころか「看板」だそうです、なんて言ったらえらいことになる。


 「そのうち仕事だけじゃすまなくなるぞ?」


案の定、先生はいちばん痛いところを突いてきた。


 「大丈夫ッス」

 「名前で呼び合うようになったら小僧の『術』に半分はまったも同じだから気をつけろって、言ったんだがなあ・・・・・・」


 げげ、そういやそうだった! そんなバカなこと起こりえない、って思ってたんだけど・・・・・・。


 ふつうこういうことは言わないんだがな、「相手が相手」だから――――水台先生は鼻にしわを寄せると渋面をつくった。そうすると黒目がちな眼が真っ黒になってちょっと動物じみて見えてくる。


容姿からしてそうだが、内面でも先生とヤスノリは水と油だ。

とくに「あの事件」以降は、ヤスノリの方がことさらに水台先生のことを避けているように見える。


 「あの男だけはやめておけ。 あいつは人あたりはいいが、色ぐるいだ」


 そこまでじゃないです――――

そういいかけたあたしはミカさんのことを思い出してやめる。 「やすのり」、か・・・・・・。


 「わかってますよ。てか、そんな呑気なことやってるヒマなんてないです」

 「うん。そのようだな。悪かった」


もう、その話題には関心を失ったように通り過ぎる先生を眼で追うが、あたしはそのまま、ななめしたの地面をみていた。


 わかってるし。

 なんだよ。やましいことなんてないのに。・・・・・・ホントに。



大人げないとは知りつつ、やはり面白くない。

ぼーっと突っ立ってるといきなり先生がふり向いた。


 「どうも、ぱっとしねえな。――――そんなに、気になってるのか?」

 「え、ええっ?!」


 「何もそこまで驚くことはないだろう? だいたいは雛子から聞いてるよ」


 剣を折られた話のことだ――――見透かすような黒い目をまえに、あたしは必死で平静をたもつ。それでもかーっと顔が火照るのを感じた。

感じているのは羞恥と混乱・・・・・・あと、不安?


そして、それらよりずっと大きい―――― 「罪悪感」。


 「それで来たんだろうが。ん?」

 「あ・・・あ、はい、そうッス。教えていただきたいことがあって・・・・・・」


 いいよ。ちょっと待ってな――――水台先生は玄関にはいるとどすん、とダンボールをおろした。 うわ、サツマイモでけー。いつもあたしが買ってるヤツの倍くらいはあるよ?


 「できすぎた。帰りにもってけ」

 「はい! そりゃもう」


来てよかった・・・・・・これでビタミンCが補給できる。


 「よし、それじゃついて来い」


畑仕事の地下足袋ふうのゴム長のまま、先生はすたすた歩き出した。

その先にみえるのは手押しポンプのついた丸井戸と、トラクターの赤い鼻づらがのぞく木造の納屋。


 「あ、ええと・・・」

 「そのままで構わん。こい」

 「はい」


納屋に併設の、もと牛小屋とおもわれる建物をくぐって、枯れ草のしげる柵に囲まれた空き地にでた。

柵の背後はわずかな空間を残して山崖の急斜面が迫っており、天然の目隠しになっている。


水台先生は枯れ草を踏み倒して小さな広場をつくった。さらにその周囲を踏んでひろげる。


 ちと滑るが、これくらいあればいいか――――そういうと納屋にもどり、鍔のついた古びた木刀を2本、抱えて引き返してきた。

やや長めの一本を投げてよこす。あたしは抱きかかえるようにして受け止めた。いや、今日は稽古をつけてもらいに来たんじゃないんだけど・・・・・・。


あたしはとまどいながら木刀を見下ろす。

褐色がかったオレンジ色の、年代物のビワの木である。 頑丈そうだ。


 「ほれ」


同じくビワ製らしい木刀の先で、先生があたしの背後の柵を指し示した。


 「?」

 「カバンだよ。そのへんにかけとけ」


いまいち飲み込めないでいるあたしに、さとすように言う。


 「見たいんだろう? ―――― 『らんしゅごほう』 がよ」

 「あ、はい!」


いきなり脳天を打たれた気分であたしはリュックをおろすと柵の柱にひっかけた。


ポケットを探るがどこで落としたものか、髪ゴムがみつからない。やむおえず、マフラーをきつめにまいてその中におしこむ。


 「お願いします」


一礼して、青眼にかまえた。



水台先生は剣をとりあげかけたが、すぐに構えをとく。


 「小津乃、おまえ――――本当に大丈夫なんだろうな?」

 「う・・・・・・」


なんだか体がいつものようにきちっと締まらないというか、膝のあたりがふわついて重心が高い感じだ。 風邪の後遺症はおもったより大きそうだった。


 「やめておくか?」

 「いえ、大丈夫っス。 お願いします!」


イモもらって帰るだけなら三時間かけて来た意味がなくなってしまう。


あたしは唇をなめ、足をふみなおした。

剣の柄を二、三度にぎり絞って全身の統一感をたしかめる。 かたいな・・・・・・。


 手加減はしねえぞ? ――――先生はふんわりと青眼に構えたかと思うとひょい、と八双に変化した。


何気ない動きだったが、思わず首をすくめたくなるような迫力である。

はやくも呼吸が乱れるのを感じながら、けんめいに探った。


 肘があいてる・・・・?


いつもは気にならない前髪がわずらわしい。 あたしは額にうっすらと汗をかいていた。


注意を奪われた瞬間、先生の剣先がすい、と下がり、脇構えに変化する。


 高い。握りが丸みえだ。 片手うち?


つつつ、と前に出た先生が、いきなり怪鳥のように飛んできたのはそのときである。


滑空する小柄な体躯と一体化して脇の下を斬り上げてくる剣に、あたしはぶざまに身をよじってあわせた。 な、なんだ、いまの変化は?!

火がつきそうな勢いで滑る刀身をやり過ごして鍔もとでおさえる。だがそれが、先生の狙いだった。


足を送って体勢を立て直すよりはやく、どっと先生が肩をぶつけてくる。あたしはあっけなく飛ばされた――――と思ったが!


ぶつかり合った鍔はまるで接着剤でひっつけたかのようにからんで離れず、あたしは先生とつばぜり合いになった格好で、ぐいぐい柵に向かって押されていた。


 これは――――!?


左回り右回りと巧みに崩され、あたしは必死で先生から離れようとするが逃げられない。そして、少しでも浮く気配があると巌のような重圧が手首にかかってくる。 

引き技に垂直にちかい跳び蹴りを混ぜるのは水台先生の得意技でもある。あたしは完全に動きを読まれ、封じられていた。


どん、と背中が柵にぶつかり、剣をはさんで先生の顔をみおろすかたちになった。


いつもは黒々と丸い水台先生の瞳が、針のように細く、鋭くなっている。

あたしの視野はかげりを帯びて狭まり、先生の顔のそこだけが、冷たく、明るく、金属のように硬く光っていた。


 「おうりゃ!」


裂帛の気合と手首がもぎとられるような衝撃。


ぱきっ、という乾いた音とともに長い影があたしの顔をかすめて飛び、腕がふっと軽くなった。


何かが枯れ草を打つ音。

周囲が急にあかるくなり、物音がもどってくる。


高い山からおりてきたかのように、痛いようなツーンという空気のうなり。


 「・・・・・・ま、こんなものかな」


青眼でするすると後ろに下がった水台先生が、ぼそっとそういった。

軽く息を切らしているのは最後の一瞬にすさまじい集中力と瞬発力を注ぎこんだからなのだろう。


あたしは自分の手もとを見つめたまま呆然としていた。


丈夫で粘りのあるビワの古木刀が、鍔元から15センチあたりで切り取ったようにへし折られている。


 「・・・・・・いったい、どうやるんですか?」


肩をこわばらせたまま、やっとの思いでそうたずねた。


 そうだな――――水台先生がゆっくりと構えを解いた。


いつもの優しい眼に戻った黒い瞳を細め、棒立ちになっているあたしの全身をぼんやりと眺めているようだ。


 「まあ・・・・・・知りたきゃ精進するんだな」

 「ひどっ!!」


 ばかたれ、正論だろうが――――先生はわらって木刀を柵に立てかけると、灰色のジャンパーの内側から煙草と、蓋付きの灰皿をとりだす。


 「いまのが 『らんしゅごほう』 なんですか?」

 「うん」


ぷかり、と煙をはいた水台先生は、木刀の剣先で地面に 「乱手護法」 と書いてみせた。


 「当流の奥義のひとつだが、めずらしいものではないよ。どの流派も似たようなものを持っている。・・・・・・大同小異、というやつだな」


 何しろほら、こいつは「人間用」の技だからさ――――

そういう先生の言葉をあたしは聞きとがめる。


 「『人間用』ッスか?」

 「そうさ。キシン同士の抗争用の技なんだよ。魂魄向けじゃない。・・・・・・ま、そういう時代もあったということだ」


男というのはほんとうに不思議な生きもので、武器をもったら誰かをやっつけたくて仕方なくなるらしい。 

そういうあたしの食べ物への執着は理解しかねる、とコジロウにいわれたことはあるが。


 「水台流にもとからあったものでもない。初代がどっかからひろってきた技だとおもうよ」


一子相伝とはいうものの、人が考えつくことはそう変わらない。たいていのキシン流派はお互いの技を盗みあって成立しているのが現実だ。

極端な場合だと名前が違うだけで中身は同じ、という例もある。――――抗争がおきるわけだよね。


 「小津乃が、かまされたのは、さっきの技かい?」


あたしはちょっと考えてから、首を横に振った。

 似ているが、違う。


何をされたのかわからないところ、一瞬で剣を折り飛ばす効果などはそっくりだが、首なし騎士がやったのはもっと粗野で――――破壊的な技だった。


 「ふーん。そうなのか」

 「他流派ではどんなものがあるんですか?」

 「似たようなものでかい?」

 「はい」

 「そうだな、道具をつかうところもある。こう――――鎖だとか鏨(たがね)みたいなものを隠しもっててな、刀身に叩きつけたり、手裏剣のように投げたり・・・・・・」


 姑息っちゃ姑息なんだけどな、まあ、「ケンカ」だから――――先生はそれだけいうと、灰皿に吸殻をしまった。


 道具か――――。


 「そういうの、『迷い魂魄』が使う、なんてことはあります?」

 「『乱手護法』をか? うーん・・・・・・キシンの魂魄ならやるかもしれないが」


 聞いたことはないな――――先生は天を見上げて難しい顔をする。 


 「やられたのは、小津乃がはじめてなんじゃないか?」


雛子は先生に、「いかずち落とし」が返り討ちにあった話しかしていなかった。

あたしも首なし騎士のことを伝えていなかったので、先生は最初、人間相手に敗れたと思っていたらしい。


強力な迷い魂魄は実体を持ち、まるで生者のように行動する。この世界では珍しいことではない。

しかし、首なし騎士の行動はそういう連中とは違い、はっきりとした主体性を持っていた。


未知の生物――――。


少しずつ、解けてきたような気がする。


やっぱりあいつは「カエル」じゃない。たしかに、「金のまり」と連動しているのかもしれないが、それは直接ではない。


おそらく・・・・・・あいつが探しているのはボールじゃない。


 ――――そうだよ!


あたしははっと顔を上げた。 思い出した! あたしが知りたかったのは・・・・・・。


「ところで小津乃、その頭どうした?」


笑いをかみ殺している水台先生の言葉に、あたしはあわてて頭をおさえる。


てっぺんにちかい後頭部の髪の毛が、とさかのように逆立っていた。


 「な、なんでェ――――?!」

うろたえるあたしに堪えかねたように先生が爆笑しはじめた。


電車だ!

洗面台が寒かったから、メシ食ってるあいだに乾くだろうとドライヤーを使わなかったのだ。

南部鉄道の座席にずり下がって寝ているうちに、寝グセがついたのにちがいない。


 「ワッハハハハ・・・いや、似合っているぞ? 小津乃らしいというか――――まるで軍鶏(しゃも)だなハハハハハ


必死で頭をなでつけるあたしを前に、先生は腹をかかえて笑い続ける。

「先生・・・・・・」







笑いごとじゃないんですう!




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蛙王(4)

夜勤帰りらしい中年男が、立ち食い蕎麦をうまそうにすすっている。


あたしは見るともなしにその光景を眺めていたが、不毛さに気づいて電車の窓をしめた。


定都中央駅――――

日に2本しか走らない単線の南部行き電車は、折り返しの出発時刻を待っている。


早朝の車内は、上りの乗客をおろした人いきれで、むわっとしていた。新鮮な外気を入れたいが、熱そうなそばつゆの、甘い香りは切なすぎる。


 食べたいな。


カウンターに並べられているラップのかけられた小皿のおにぎりと、脇に添えられた黄色いたくあんもしきりに誘っている。

 でも、向こうでタクシー代がかかるかもしれないし・・・。



結局、あたしは風邪で高熱を出し、数日ほど寝込むはめになった。

今日にも箕面庄蔵に殺される運命かもしれないというのに、われながらお気楽なものである。


やっと起きあがれるようになってシャワーを浴び、冷蔵庫をあけてみると、消費期限切れの納豆がひとパックに卵が2個しか入っていなかった。

食費はあるのだが買出しにいけなかったのだからしょうがない。それに、収入が途絶えるかもしれない今は、少しでも節約する必要がある。


納豆はまだ食べられると判断して、たまごかけご飯の朝食を、ひとつぶずつ噛みしめながらすませてきた。


本当はもう一日寝ていたかったがぐずぐずしてもいられない。一日もはやく、水台先生に会って「らんしゅごほう」のことを教えてもらう必要があった。



定都にひとり、身よりも知り合いもなく暮らしているあたしは、こういうときに苦労する。

郷里に置いてきた両親は、祖父のことをひた隠しにしていたくらい、あたしの稼業を毛嫌いしている。 だからずっと音信不通だ。


出て行け、ああ出て行ってやると飛び出してはきたものの――――心底から憎みあった仲ではない。

でも、お互い意地があるもんね。 それにあの親父なら、ひとり娘は死んだとか言って葬式くらい出してるだろう。


あたしは背筋を伸ばして座りなおすと、水台先生みたいに腕組みをして眼をつぶった。

縦ジワを寄せて足も組む。・・・・・・こんなだから友だちができないんだな。




寝込んでから二日目、さすがに危険を感じたあたしは、カーペット下の封筒から千円札を何枚かひっぱりだして、近所の薬局へ這うようにして行った。


 「流感じゃないの? お医者にいったほうが・・・」


うるんだ眼で熱さましを求めるあたしから、充分な距離をとりつつ薬剤師は心配してくれたが、風邪だろうが流感だろうがここまでくれば一緒だろう。

保険年金は毎回きちんと納めている。でも病院へ行くのに消費する体力、待ち時間を考えると・・・とても出かける気にはなれなかった。


また這うようにしてアパートにもどり、薬を飲んで布団をかぶる。


当然のように悪夢を見た。



――――はしっこそうな七つくらいの男の子が、スチール製の物置のまわりをぐるぐる走り回っている。

あたしは心配になって家族のところへもどるよう、男の子に声をかける。


男の子は笑って、物置の引き戸をひくと、するりと中に入っていった。


だめだよ、あぶないよ――――あたしは中をのぞきこんで、男の子がいないのに青ざめる。


 どうしよう、「連れて行かれて」しまった・・・・・・


茫然となったあたしは、立てかけてあるスキー板のあいだに、金色のボールがはさまっているのに気づく。

それに触れてはいけない――――とわかっていながら手にとる。


手の中でボールはたちまち緑色のカエルに姿をかえた。


ぬめぬめしたゼリーのようなものに包まれたカエルは、あたしの襟に手をかけるとしゃにむに胸元にもぐりこんでこようとする。 う、うわやめろーー!!


カエルの脚をつかんでひっぺがそうとするのだが、ずるずるすべってうまく行かない。


そのままカエルはあたしの喉に吸い付くと――――音を立てて血を吸いだした!


悲鳴をあげてカエルをなぐりつけ、爪を立てるがビクともしない。カエルは赤黒くぶよぶよふくらんで・・・・。


リリリリリーーーーーーーーン

リリリリリーーーーーーーーン・・・




電話の呼び出し音に目覚め、ぐるぐる巻きの布団からもがき出ると、パジャマの胸元からテレビのリモコンが転がり落ちた。 ・・・おまえか、血を吸ってたのは!


全身にぐっしょり寝汗をかいていた。


顔にぺたり貼りつく髪の毛を気持ち悪く思いながら、あたしはふらふらと台所によろめき出ると受話器をとる。


 「もしもし、ライカさん?」

 「――ん何ッ!!」
 

うたうようにしゃべるヤスノリの声に、とりあえず腹をたてた。 いまダメ! 

気まずいというか恥ずかしいというか――――なんでこんな具合の悪い時に電話かけて来るんだよ! ホントにいつもいつもタイミングの悪い・・・・・・


 「いえ、その――――ボクになにか用があったようだとミカさんが」

あ、そうだった。 てか、それ二日前の話だろう。

 「昨日も連絡がなかったから、ミカさん、心配していましたよ。 なんだか様子が変だったって。 ――――どこか、お怪我でもされましたか?」

最後に声を低めるヤスノリは箕面を連想していたらしい。あたしはあわてて打ち消した。


 「んー、なんでもない。 無事。 ちょっと、風邪をひいただけ」

 「風邪?」

 「うん」

 「ライカさんでも風邪をひく・・・・・・」

 「それどういう意味!?

 「あ、ああ・・・しかし、いまは風邪などひいている場合では――――」

 「わかってるよ、そんなの! でもひいたの! ひいちゃったんだからそのー・・・しょうがないでしょっ!?」

 「・・・確かに」

まずは、お元気そうでなにより――――と気の抜けたような声で言っている。 ひどい! 病人になんてことを。


 「そうすると、今日は出て来れませんね?」

 「無理」

 「トミタさんが面白い話を仕入れてきました」


すっと、熱でぼやけていた頭の中がクリアになった。・・・・・・専務さん、やってくれたんだ!


 「50年前、箕面庄蔵には複数の愛人がいて、そのために夫婦は別居しています。 愛人の何人かとは、最近まで続いていたようです」

 「おおう!!」

 すげー! あたしは心から感心した。 

 だって80のじいさんでしょ!? 相手が当時10代だったとしても・・・・・・やっぱり、ただものではない。

大した元気だ。 さすがに、あたしを殺そうとするだけのことはある。


 「なに叫んでるんです? もちろん、もう男と女ではないですよ。 古い友人――よき相談役、といったところですかね」

 「ふむ」


ならぜひ、その相談役にはジューチンをたしなめてほしい。 自分はやりたい放題やって来ておきながら、妻の間男の孫娘を付け狙うのはどうかと思いますよ、とかなんとか。

だが続けて、ヤスノリは奇妙なことをいいはじめた。


 「しかし、もしかすると――――50年前も、彼らは男と女ではなかったのかもしれないのです」

 「・・・?」


すぐには意味がのみこめなかった。仕事柄か性格か、ヤスノリは回りくどい言い方を好む。


 「一見、奔放な遊びに思われる多数の愛人づくりは、初枝さん、つまり奥さんとの別居の『理由付け』だったという証言があるのです」


 「――――理由づけ?」

なにそれ。


 「愛人づくりは芝居だった、ということなんでしょう。・・・・・・それでも実際に囲われた女性たちはいるわけですから、本当なら随分と無駄な出費をしたものです」

 「じゃあ――――別居の本当の理由は?」

 「残念ながらまだそこまでは。しかし、庄蔵は初枝さんをとても大切にしていて、ふたりは最後まで仲の良い夫婦だったのだそうです。・・・・・・不思議な話でしょう?」



不思議というより――――

気味が悪かった。


でたらめだ。この事件は。



キシンの技をつかう亡霊騎士。

「金のまり」と「かえるの王子」。

50年の歳月を越えてきた殺意。

名目だけの愛人たち。別居する仲睦まじい夫婦――――――。



どうにも筋道がつけられない。

何かが隠されている、それだけはわかるのだが・・・。
 

受話器をもったまま、あたしは肩につもった糸をふりおとす。


――――箕面庄蔵。


あたしの中でイメージが二転三転する男。 荒ぶる魂魄。


彼に関わるすべてが、あっさりその正体をみせているようでいて、次の瞬間、がらっとまた別の顔に変化する。

ウラがオモテに、ひだりがみぎに。 一切が形なく、まるで・・・


 ――――アマツモリだ。




あたしが黙っていると、ヤスノリは話を補足した。


 「愛人たちのあいだでは『宮さまの方忌(かたい)み』と呼ばれていたそうですよ」

 「方忌み?」

 「庄蔵は常に愛人宅を転々としていたのですが、そこに現実の生活はなかったんです。実態はむしろ、愛人宅から妻のもとに足しげく通っていた――――ということらしい」

意図的に真っすぐ目的地に行かない振る舞いが「方忌み」に似ていたので、そう呼ばれるようになった、とヤスノリは説明する。


 ――――「方忌み」か。


日めぐる方位神がいる方角をふむと祟りがあるので一度別方向にむかい、そこから出直す・・・・・・一種のまじないである。

妙にしっくりくる呼び名だという気がした。庄蔵が忌んだシンってなんだろう? あったとすればの話だが。


 「証言によると、庄蔵は食事もせず、服装も解かず、『日付が変わるのを待ってから』妻のもとに向かう、ということが何度もあったのだそうです」


それじゃ、まんま「方忌み」ではないか。


 「愛人のほとんどはそのまま、それぞれ別の男たちと事実婚の状態になってさえいます。 もちろん、庄蔵も認めた上での。・・・・・・これも、金持ちの酔狂にしては変な話ですよね?」

 「うん」

 「でしょう? 庄蔵のほうでは愛人たちのことを『八乙女』と呼んでいたとか。 方忌みに対する洒落のつもりだったのですかね」

 「やおとめ?」

 「巫女神楽を舞う八人の巫女のことです。とはいえ、愛人が八人もいたわけではありませんよ」

一、二度入れ替わりがありましたが、基本四人だったようです――――とヤスノリはそこまで話してくれた。それでも、少ない人数とはいえないと思うが。


 「それより――――さらに変な話があるのです」


心なしかヤスノリの声が硬くなった。


 「愛人の中にですね、初枝さんは別居するために実家にもどったのではない――――実家に幽閉されていたのだ、と言うものがいるんですよ」


 ・・・実家に、幽閉?


 「土師の――ボクの祖父母の家です」


電話の向こうに、能面のような表情をしたヤスノリを思い浮かべることができた。


謎のひとつは解けたような気がする。幽閉は、きっと事実だ。だから誤魔化す必要があったのだ。

そして謎がひとつ増える。土師家の同意なしに幽閉はありえない。


幽閉の理由はやはり――――いや、庄蔵と初枝夫人は実は仲が良かった・・・。

 方忌み、そして八乙女。・・・・・・なんだろうこの違和感は。


あたしが考え込んでいると、ヤスノリが例の、他人事みたいな調子で言った。


 「どうもこの事件、ライカさんとは一蓮托生の様相を呈してきたようですね」

 「勝手にテイさないでよ」

 「またそんな、つれないなあ――――。まあ、でも、庄蔵がライカさんにこだわる本当の理由は、この辺をつつけばわかるんじゃないかとボクは思っているんです」

 「なんで?」

 「初枝さんが幽閉されたのは、『金の鞠』を受けとってからほぼ一年後です」


間の悪い沈黙があった。


だが、ヤスノリの言うとおりだ。 夫人の浮気が幽閉の原因、と考えるのが自然だ。


あたしは電話中であることを忘れて、熱にうかされたまま自分の考えに沈む。


一年後に発覚した――――つまり最低でも一年は「続いていた」。


夫人は激怒した庄蔵に幽閉されたが、恋人の正体については20年間黙秘を続け、さらに30年後、すべてがようやく明るみに出た。


そこで庄蔵が知ったのは、夫人が死ぬまで庇いつづけた男が、彼らの苦悩をよそにのうのうと幸せな家庭を築いていたということ。

すでに夫人のもとに旅立っていたということ。

まるで罠でも仕掛けていたかのように、首なし騎士という、いわれない災厄を箕面にもたらしているということ。


だがそれと同時に、手のとどくところに、男の孫娘があらわれた。 これは天恵である。復讐の時はきた――――


わかりやすい筋書きである。


では。



この筋書きもまた「理由づけ」である、と考えたらどうだろう?




そのとき、ヤスノリが軽く咳払いをすると物柔らかに語りかけてきた。


 「・・・でも、それはそうとして、まあ、よかった」

 「なにがー?」


ふいに現実に引き戻され、うかつにも、ぼんやりしていた自分に気づいた。・・・・・・隙だらけだな。


 「風邪とはいえ、いちおう元気そうな声がきけましたからね」

 「――――」


演技だ。本気じゃない。

――――そう自分にいいきかせようとしたが、だめだった。


ヤスノリの声音には、普段聞くことのないしみじみとした心情がこもっていて、あたしは一気に距離を詰められたことを感じた。


他人事に見せかけて、ヤスノリは本心を語っている。

とぼけた外づらを装ってはいるが、この男も不安なのだ。 ・・・・・・だからといって今だけ寄りかかられてもこまる。


 それに、相手がちがう――――



あたしはいそいで話題をかえる。


 「そういえば――――」


言いかけるあたしを、ヤスノリはぎくしゃくとさえぎった。

 「あ、あの話ならダメでした。かなりしつこく食い下がったつもりですが。――――庄蔵はすべてが終わるまで、ライカさんと会うつもりがないそうです」

ヤスノリはいつの間にか、箕面庄蔵を呼び捨てするようになっていた。


あたしは、ヤスノリを通じて箕面庄蔵に直談判を申し入れたのだ。


命乞いや譲歩を引き出すためではない。 庄蔵に直接会って、彼がどんな眼であたしを見、何をいうか、それを確かめたかったのだ。

この奇妙な「糸」の意味に、もうすこし見当が立てば、もっとましな行動指針を得られるのだが。 このままでは二進も三進もいかない。


あたしは、むずかる赤ん坊を抱えて途方にくれる若い母親のような、そんな気分だった。

その気分の後ろに、ちりちりと心を引っかく何かを感じた。それは形にならないまま意識の底へと消える。


また黙り込んでしまったあたしを気遣うように、ヤスノリが水をむけてきた。


 「よかったら――――愛人のひとりにあってみますか?」

 「・・・会えるの?」

 「トミタさんがつなぎをつけてくれます」


どうやるのかは想像もつかないが、つなぎをつけられるというのなら会わない手はない。


桐生華恵(きりゅう かえ)――――ヤスノリが教えてくれた「八乙女」の名前をしっかりと胸に刻みつける。



 「それから・・・日記の現物は、ボールと交換という条件なら貸してもらえるそうです」

 「ほんと?!」


あたしはおもわず声が高くなる。きっと無理だろうとあきらめていたからだ。

日記にはおそらく、呪術的なしかけが施されているのに違いない。ボールを要求するということは、日記が再度首なし騎士を封印する力を持っているからなのだろう。


しかし――――

あたしはまた「糸」が投げかけられるのを感じながら首をかしげる。


では、箕面庄蔵の本当の狙いはなんなのだ?


一見、庄蔵はあたしに死を強要し、あたしが近づくことを拒絶している。


その一方で、さあ、見事この難問を解いて死から逃げおおせてみろ、と言っているようにも見えるのだ。

はやく会いに来てくれと、恋焦がれる気持ちを投げかけてくる。


あたしは、開けてはならないパンドラの箱にたくみに誘導されているのではないか?


金のボールだって――――もしかすると、庄蔵はヤスノリが返却を保留するだろうと計算したうえで彼にあずけたのでは・・・・・・。



その瞬間、ひらめくものがあった。

あの日、ミカさんの本音にたじろいで、あたしの中からとり落としてしまったもの――――。


 「ヤスノリ、あんたまだボール、持っているよね?」

 「持っていますが・・・」

 「それさ、いま、『つぶしている』?」

 「ん? まあ、ああいう性質ですから、しまうときはファイルに挟むことにしています」

 ヤスノリは、潔癖症で、整頓好きだ。


あたしは心臓が早鐘のように打ち始めたのを感じた。


 「もうひとつだけおしえて。・・・・・・それ、あの日からずっとしまったまま?」

 「そうですね。 ライカさんが帰ったあと、しばらく出しっぱなしにしていましたが――――退社前に片付けてそれっきりです」

 「そのまま絶対に出さないで!


みなまで聞き終わらず、反射的に叫ぶように言っていた。


 「それは、ライカさんがそういうのなら・・・・・・でも、どうしたんです、急に?」


かちり、とあたしの中で何かがはまった。


はまったが、うまく説明ができなかった。 それに、何だっけ、もうひとつ確かめなきゃいけないことがあったはずなんだけど・・・・・・。

あたしは熱でのぼせた頭をふる。


 「うまくいえないんだけど・・・」


ヤスノリは黙っている。


 「首なし騎士だけど――――もしかするとあれは、『カエル』ではないのかもしれない


電話のむこうで、ヤスノリが不審そうに息をとめる気配。


 「・・・・・・と、思う」

口に出してみると思ったより自信がもてず、最後はつぶやくように言っていた。


 「――――わかりました。ボールには触れないようにしておきます」


ヤスノリは、逆らわなかった。

この業界が長い彼は、キシンの直感が侮れないことをよく知っている。


 「しかし、日記はどうします?」

 「それはもう少しあとで。 借りるときにはあたしも立ち会うから」

 「ふーむ・・・・・・」

 「何よ。 なんかまずいことでもあるの?」
 
 「書庫係の方から今晩にもお借りする予定でしたので――――ああ、もちろん延期してもらいますから。 気にしないで」

 「気にしてないよ」
 

書庫係は女だな。 たぶん若くてきれいな。

このへんのヤスノリはわかりやすい。



さて、そうとなれば――――ヤスノリは話題をかえた。


 「ボクはこれから土師に行って話を聞いてくるつもりです。 しかし、あの家には人を幽閉できる場所などないはずなんですが・・・・・・ああ、それとライカさんには増援を送ります」


 「増援? コジロウ、来てくれるの?」

 「いや、コジロウさんではありません。 彼はいま、抱えている案件から手が離せないらしくて・・・・・・ライカさんとは初対面ですが、かなり以前からウチで依頼を仲介しているキシンです」


 それなら、ベテランのはずだが。


なんだか奥歯に物がはさまっているような言い方が気になる。


 「ふうん――だれ?」


 「アリス・E という人です。」

 「女の人?」

助かる。 女のキシンは少数派だから、現場のむなしい主導権争いをすっ飛ばして仕事に入れるし、生命大事で引くべきときには引く知恵もある。

それに、語学が不安だが外国のキシンならデュラハンのことにも詳しいかもしれない。


 「いいえ。アリスさんは男性です。――――アリス・E というのは通り名」



 「・・・ふうん」


またよくわからないヤツが出てきた。


霊の中にはこちらの名前を知られると、まれに致命的な結果につながるタイプがいる。

まれに、というのはいまではこのタイプは研究しつくされていて、名前を取られてもすぐに無力化できるからだ。

それでも昔気質のキシンの中には、用心ぶかく通り名で本名を隠しているものがいる。


 アリスもその類なんだろうが――――


 「別にいいけどさ・・・・・・ぜんぜん聞かない名前だけど、つかえるの? そいつ」

 「たぶん」

 ――――――たぶんって!


 あたしは憮然とする。

 「ヤスノリ、この件は悪くすると死ぬって・・・・・・あんたも承知でしょうが?!」


そこは大丈夫です――――だが、ヤスノリは電話の向こうで妙な含み笑いをした。



 「たとえ役に立たなくとも足はひっぱらない・・・・・・彼はそういうキシンです。 なにせ、アリスさんのもうひとつの通り名は 『死ねない男』 ですから」





がったん――――。



ゆれを感じて、あたしは眼をあけた。 いつの間にか眠っていたようだ。

窓の外をみると南部鉄道はいつのまにか走り出していて、どこかの駅をはなれるところだった。


あたしは窓に顔をよせ、ホーム端の白い看板が通過するのをまつ。

「くろいわ」――――まだ半分も来ていない。



カンカンカンカンカンカーーーーン・・・・・


踏み切りを越えた先には、稲刈りのすんだ岩庭平原の寒々とした風景が広がっていた。

たたん、たたん、という軽快な振動をからだで受けながら、あたしは空に重く垂れこめた雲を見つめる。


あの雲の先、赤出羽山脈のむこうには湿原にかこまれた湖沼地帯が広がり、あとひと月もすれば降りしきる雪の中を白鳥たちがかえってくる。
 

遠い過去の、死者の魂魄。

この世とあの世が、ほんとうにひとつながりならば・・・・・・。



 ――――ひとは鳥になるんだよ。








ふいに視界の隅を黒い影がななめに横切り、あたしは緊張した。


黒い鳥。


間をおかず、次の一羽があらわれ、二羽のカラスは、まるで追いかけっこをしているように乱れた輪をえがいて舞い、小人の行列のような稲木のむこうへと消えた。


息で曇ったガラスから、あたしは身体を離す。


コートのポケットに両手を突っこみ、椅子に深く座りなおすと、ふたたび眼をつぶった。

先は、まだ長い。





箕面庄蔵だろうが首なし騎士だろうが――――そうかんたんに、やられてたまるか。





あたしは、まだ死ねない。




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テーマ:自作連載小説 - ジャンル:小説・文学

         蛙王(3)


きっとそいつは・・・ずっとあたしのそばにいたのだ。

いた――――「はず」だ。



両者をへだてていた頼りないヴェールが、いま、とけおちてしまった。






視界の戻った橋の上にヘドロの蝗はあとかたもない。

橋はいま、窒息している。 ビニールのような蛍光色の苔で、びっしりとおおわれている。




あたしは両手で口を押さえた姿勢のまま、ぎらぎらと赤黒く反射する川を凝視していた。

川は桃色をしたゼラチン質のでたらめなものに変じてしまっている。



その表面を、灰白色の巨大な臓器――――とりだされ、なげすてられた脳みそのようなものが――――震えながら這っていた。



蟲――――。



そう、それは蟲の塊に似ていた。


空が傾き、遠近感がねじれ狂った川面いっぱいに、ぶよぶよとした無数の蟲がうごめいている。

半透明の白濁した蟲たちはブルブルと伸び縮みしながらからみあい、喰いあい、ねじれもつれて一つのまるい小山をかたちづくっていた。


小山が呼吸をするように収縮を繰り返すたび、ぽろぽろと蟲がこぼれる。

蟲はゼリーの上でひくひくと反りかえり、もがきながら桃色の水中にゆっくりと沈んで・・・蛭のようにひらひらと舞う。


無数の蟲をまといつかせ、ゼリーの海をゆっくりと蛇行する水中の巨大な丸い翳り。

蛭たちは、翳りが近づくと驚くほどのすばやさでさっと吸い付いてゆく。


 蟲じゃない・・・。 


あたしは総毛だった。

蟲に見えるあれは、独立して動くおびただしい触手の群れなのだ。


触手の衣をまとって――――あそこに、「本体」がいる・・・!



山は、ゼリーをひきずるようにして緩慢に波うち、橋の方へとにじり寄ってきた。

近づくにつれ、ぷちぷちと泡がはじけるような音が聞こえ始める。


触手は、そろって一方向に流れたかとおもうと渦をまき、もつれ波打って、くしゃくしゃと奇怪な皺を折り刻む。


一匹の触手が、ぷしゅっと体液を飛び散らせて押しつぶされた。

たちまちその周囲が窪んで、屍骸を内部にとりこんでしまう。

間をおかずめりめりと、ねばつく糸をひいて、あらたな一匹が生えあらわれる。



ぷしゅっ。めりめり。

ぶちゅっ。めりめり。



山の全身のいたるところで、不気味な食物連鎖がくりかえされている。



あたしは歯をガチガチいわせながら後ずさりしようとしたが、足がすくんで動けなかった。


どうしようもなく体が震える。

・・・原初から、意識の奥底に刷り込まれている根源的な恐怖。



そう、あたしはこいつを知っている。

思い出さないようにしていたけれど――こいつを以前にも・・・見たことが・・・ある。



ぐちゃぐちゃとした蠕動をくりかえしながら、蟲の小山は橋にむかってせりあがり、姿形をたもてず潰れひろがった。


持ち上がろうとしては溶けくずれ、ふるふるとへしゃげる。

白濁した蛆をはねあげ、ぼとぼとと水面にこぼす。


 登って来れなければいい――――


そう願うタイミングを見計らったかのように。



ぶわっ!




山は突然、倍以上の大きさに膨れ上がった。

紙袋に息を吹き込むような唐突な動きに、あたしはふたたび悲鳴をあげる。


ぱんぱんに腫れあがった小山は、蟲を滝のように流しながら橋にのしかかってきた。

ずーんと音を立てて、橋が無気味に振動する。 あたしはつるつる滑る苔の上で膝をつき、そのまま頭を抱えて丸くなるしかなかった。



じゅるっ・・・



汁気にみちた蟲の塊は、てっぺんからさらにひとまわり小さな山を橋の上にひり出す。

小山はぬるぬると旋回し、のたうつ触手がすえた粘液をあたりに撒き散らした。


巨大な蛆が何匹かころげ落ち、橋の上でぴくぴくと引き攣る。 どさっと目前に投げ落とされた一匹に、あたしは金切り声をあげ、這いずって逃げた。


立てない。走れない。サイレンのように悲鳴を上げ続ける自分を、どうしても止められない。


あたしは逃げながら、半透明の硬い殻に覆われた蛆の頭部から、黒くて長い、蜂の針のようなものが出たり入ったりしているのを見た。

蛆は、針の出し入れのたびに青黒く変色してゆき――――



前ぶれもなく、破裂した。



ぼん、とひろがる猛烈な腐臭。 いや、腐臭などというレベルではない。

肌を刺すガスの激しい痛みに、あたしは息を詰まらせて咳き込み、顔をかきむしった。



ぶるんっ!



小山の腹がふるえてしぼみ、触手のかたまりはなだれをうって川へと倒れこむ。

橋の上に悪臭をはなつ粘液をひき、滑り落ちながらも、今度は崩れなかった。


いまやヒョウタン型に変形した触手の山は、すぐ目の前でぶよぶよと揺れていた。

その先端をすかして、何か赤黒いものが生えでようとしている。



めりめりめりめり・・・ぶちちち・・・・・・



触手のカーテンを千切りわけ、薄い皮をきんきんに張った真っ赤な鼻が、そそり出る。



 「うああああああーーーーーーっ!!」



いよいよ近づいてきた「その時」に、あたしは絶叫し、壊れた人形のようにがくがくと四肢を震わせた。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!逃げたい、でも逃げられない・・・逃げられない逃げられない・・・逃げられないんだ・・・!


あたり一面に充満する硫黄の臭気。

足がかりを失い、ぼとぼと水面に落下する蛆の雨音。 そして――――



スンスン・・・

 スンスン・・・




嗅いでいる。


てらてら光る、赤黒い鼻が捜している。



スンスン・・・



獲物を、嗅ぎつけている。



スンスン・・・

 スンスン・・・




そう、あたしは知っていた。


アマツモリからの訪問者。



こいつは・・・・・・好んで女の血を吸うのだ。

一度あじわった美味を、こいつは決して忘れない。


逃げることも意識を失うこともできず、あたしは眼を張り裂けんばかりに見開いて、そいつがゆっくりと這いよってくるのを見つめていた。



どろっと触手の束が溶けくずれ、丸い大きな、三つの魚の眼玉があらわれる。


ぎょとっと音を立てて――あたしを凝視する。


でたらめに動いていた触手がいっせいに空をむき、針をとびださせた。


・・・その瞬間、あたしの体は金縛りになり、まばたきひとつできなくなった。

見えない手があたしのあごをとらえ、無理やり首をねじまげはじめる。


じわじわと水面を見下ろさせる。

いやだ・・・いやだ、いやだ・・・みたくない・・・・・・!



桃色ゼリーの向こうに、どす黒い翳がせりあがってくるのが透かし見えた。




もうすぐだ。




あそこから、蟹のハサミがあらわれて――――――








 「・・・らいか」








あたしはどっとくずれおち、膝小僧をしたたかに、冷たい橋に打ちつけた。


確かな手ごたえ。


橋の欄干にかけたままの指先が、氷のように冷たくなっていた。



 「らいか」



さまざまな感覚は、遅れてやってきた。



冷たい川の風と、それに混じるかすかな排気ガスのえぐみ。

橋を伝わってくる電車の響き。川面に反射する色とりどりな原色のネオン――――。



歯を激しく打ち鳴らしながら、あたしはのろのろと、声の主をふりむいた。 ・・・寒い。




数メートルほど先、すっかり人通りの絶えた橋のたもとに、幼い少女が立っている。


少女は、11月の寒空には不釣合いな白い素足に、木のぽっくりをはいていた。

紺がすりのあわせをまとった細いからだの上に、不恰好なほど大きいおかっぱ頭が乗っている。


おなじみのその姿に、あたしはまだ体をふるわせながら、ようやく言った。



 「・・・雛子」

 「ン。・・・らいか、どうした?」


 「――――なんでもないよ」



あたしは、欄干にすがり付くようにして立ち上がった。

緊張の解けきれないこわばった筋肉が、体じゅうで悲鳴をあげている。



 「ン」



小鬼はそんなあたしの様子を、手を貸すでもなく眺めていた。


眉も鼻もない、のっぺりした白い顔に、草で裂いたような大きな口。同じく裂けたようなまぶたの下から、金色の丸い目玉がのぞいている。

からんころん・・・ぽっくりをひきずりながら雛子があたしのそばにきた。



 「すいたい先生のおつかいで、きたよ」


 「水台先生の――――?」

 「ン」



ああ、そうだった。


あたしから雛子かきび太を、先生への連絡に出すはずだったのが・・・できなかったんだ。



 「――先生は、なんて?」

 「えっとね、『いそがしいようだから、きょうはかえる』って、いってた」


 「・・・そっか」



あたしは震えながら腕時計を見る。

時刻は・・・17時27分。するとこの場所は3分間ほど、アマツモリに喰われていたわけか。



 「あとはね――――えっと、えっとーーーー・・・・」



小鬼は顔をしかめ、なにかを一生懸命、おもいだそうとしていた。



 「――らんしゅごほう


 「・・・えっ?」

 「『らんしゅごほう』だって」

 「??」


らん・・・何? と、あたしは雛子をのぞきこんだ。 

ン、と雛子が無表情に見つめ返す。



 「ひなこね、先生に、らいかが剣をおられたって話、したのね」


あたしの心は、ぱっと明るくなった。上出来だ、雛子! あたしはまさに、そのことを先生に聞きたかったのだ。


 「・・・そ、それで?」

 「だから――『らんしゅごほう』だって」


やっぱり、雛子か・・・がっくりするあたしに構わず、小鬼は一気にしゃべりはじめた。


 「先生がね、くわしく話せといったから、ひなこ、きびちゃんが見てたからきびちゃんに聞いてって、いったのね。そしたら先生が、知っているところだけでいいっていったから、ひなこ、知っているところだけはなしたのね。そしたら先生かんがえてたの。・・・こうやってね」


雛子はしかめ面をして腕組みすると、うーんと唸ってみせた。


 「それで・・?」


たいして期待もせず、あたしは雛子をうながした。

しっかしよく似てら。あはは。


小鬼のその仕草はあたしになにか、暖かいものを吹き込んでくれる。



雛子は一瞬、ぼやっとした顔になったが、ようやく話の本筋を思い出したらしくこう言った。



 「・・・それはたぶん『らんしゅごほう』だろう、って。 キシンの技だって、いってた



雛子のセリフの後半が、まるで雷が轟いたかのように聞こえた。



 「・・・キシンの?」

 「ン」


キシンの技なのか。あれは。


それをどうして首無し騎士が?



じゃ、もしかするとあいつは・・・アマツモリから来た存在では――――ない?



あたしの中に、ある考えがまとまりかけたが、雛子が邪魔をした。


 「もう、かえっていい?」


 「あ、うん。 いいよ。――――ありがとね、雛子」


 いろんな意味で。 


それに、もうこれ以上は雛子に聞いても無駄だろう。


 「ン。またね、らいか」

 「またね」


あたしは小さく手を振りかえす。


ばいばい・・・ぽっくりを引きずって橋のたもとに戻った小鬼は、ひょいと闇に「またぎ入って」、姿を消した。



雛子を見送ったあたしは猛然と踵を返して、きた道を駆け戻りはじめる。

大至急、ヤスノリに会わなければならない。


さっき見たアマツモリの光景(ビジョン)。 それに、「らんしゅごほう」。



 ――――「かえるの王子」の後半部分だ!



走りながら、あたしはくりかえしそうつぶやいていた。


あたしたちは、それにひょっとして箕面庄蔵も、根本的な部分をとり違えているのではないのか。


それは、キシンとしてのあたしの勘だった。



橋を渡り終え、角の薬局と商店街のアーケードを結ぶ横断歩道を飛ぶように駆けぬけて、あたしは丸安の店先に飛び込んだ。



 「・・・あっあっ、小津乃さん??」


店のシャッターをおろしかけていたミカさんが、びっくりしたように上ずった声をあげる。


照明が落とされた店内に、あたしは歯ぎしりする思いだった。


定時退社。 こんなときにあのバカ、もういないかも・・・!


かっとなったあたしは階段を駆け上がりかけ、反転してもどるとミカさんに問いただす。



 「・・・ヤスノリは?!」

 「や、やすのり? あ、ああ――社長ならもう、帰りましたけど・・・」


あたしは思わずミカさんの顔を見返した。わずかに目を泳がせたミカさんの中で、何かが小さくしぼむ手ごたえ。 

うっかり名前を口走った自分に気づく――――ああ、やっちゃった!


 「あ、あー・・・そうだったんですか。 じゃ、いいです。 ええと、何でもなかったんです。そのう・・・ちょっと、仕事のことで」


うろたえて、言わなくてもいいことまで言う。


ああ、はい――ミカさんは目をぱちくりさせた。


 「いそぎの用でしたらウチの電話を・・・あ、でも社長、まだ帰り着いていないですね。きっと・・・」


 「ですね。ホントいいんです。たいした話じゃなかったッスから・・・」


本当に、どうでも良くなっていた。


あたしの中の狂おしい焦燥感が、きれいさっぱり抜け落ちていた。

まるで憑き物でも落ちたかのように。



本当に、きれいさっぱり。



おじゃましましたー、面食らって突っ立っているミカさんをその場に残し、あたしはふたたび駆けもどる。

センサーはもう切られているらしく、呼び出し音は鳴らなかった。


 「あれェ、雷花さん?」


呼びかけたのは、いまもどったとこらしいオオシタさんか。

すれ違う黒い人影に軽く会釈してかけ抜ける。





幡多川の水面はいまはもう完全に――――でもとても健全に――真っ暗だった。


ついすくみそうになる脚を叱咤し、息を切らして早足に歩き続ける。


あたしは、自分に猛烈に腹を立てていた。

本当に・・・あたしというヤツは!


あんなに――馬鹿みたいにとりみだして。



利己的で。うそつきで。卑怯で。ずるくて。勝手で。


弱くて。臆病で。自分の保身だけを考えて。 ・・・都合のいいときだけ女になって!


あたしに、ヤスノリを批判する資格はない。



あたしは――




あたしは・・・。



あたしは、ただ――――――。




ついに立ち止まり、怒りをこめて川を見下ろす。






――――ただ、あいつの顔を・・・「みたかっただけ」、なんじゃないのか?






わかっていた。



高徳井安則。

頼りにならない、うそつき男。


来なくていいときばっかりあらわれて、いて欲しいときには絶対にいない男。




誰もいない橋の上で、あたしは盛大なくしゃみをした。







・・・風邪、ひいちゃったみたい。





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